エレメカと人に歴史あり

ODYSSEYで書けなかったことを補足していきましょう。
http://www.ne.jp/asahi/cvs/odyssey/hyperlink/setframe_creators_kasco_shi1.html


まず、本当に久々で、かつ偶然の訪問でした。
実はここから車で30分くらいの場所に私の親戚が住んでおりまして、176号線ルートを通ると、こちらの史料館の前を通過することになるのです。
ところが、最近は行き方を変えこのルートを辿ることもまれでしたから、3年間の休業&今年8月再開という事情が重なった当日の訪問というのは、本当に”縁”というものを感じさせました。


こんなイレギュラーでしたから、当然ビデオカメラはおろかデジカメも持っていませんでしたし”とりあえず現状報告だけは・・・”ってな感覚で急いで撮ったケータイはローレゾ解像度のままでした。極めつけは、あ、そういえば、何もゲームをプレイして来なかったっけ、という事実を、このブログに取り掛かるまで気づかなかったというありさまで、いかに偶発的な訪問だとは言え、あまりにもおろそかなボケっぷりに、当人も困惑しております。
まあ、プレイ以上に濃い時間を過ごしたんだろうなと、自己結論づけましたが。


とにかく、館長のマシンガントークを一心に受け止め、自分なりに解釈するのに必死だったという記憶はあります。
(なお、館長とはご本人が「史料館なので館長がいいかな」という呼び名に由来)
各ゲーム機の電源は普段はOFFにされているようなので、プレイするには館長にお願いする必要がありますが、それにはマシンガントークが開けるまで待たなければいけない。そこに下手に「つまり、このゼロ戦の配置にも意味があるんですよね」などと合いの手を入れてしまおうものならば
ゼロ戦?! この飛行機はゼロ戦ではないんです。さっきは省略しましたが、貴方にはもう一度ここから説明する必要があると思うんですが・・・
ということで、脈々とその筋の解説が続く次第(知らんがな^^;)。
考えてみれば、昔のゲームを見て思い出に浸る、なんて雰囲気ゼロ。あらたな発見!チャレンジ!でしたね、ありゃ。




時代背景と開発者
私は親達の体験を伝えなければいけないと思いまして」と、ご自身の親や親戚、関係者の戦争史をこと細かに熱弁する館長。ならば、バラエティ番組の取材をうけるとか、まずくだけた会話からだと思うんですけど・・・、もとい、ここまでの記事を読んだ皆さんには、すでにある程度の心の準備ができたことと思います。ですので、ここからがポイント。
むしろ、この館長独自の結論がエレメカテーブルゲーム機と繋がる、その時おり時おりを自分のビデオゲームの知識にたぐり寄せる、この瞬間が醍醐味となることうけあいです。
一例を紹介しましょう。
下のSEGA製のエレメカに描かれた戦闘機の絵(画像が悪くてすいません)

↑右と左にそれぞれ戦闘機がありますよね。
右から攻撃しているのは日本の戦闘機、そして敵はもちろんB-29となっていますが、それはつまり、当時ゲームを製造していたSEGAイラストレーターたちの記憶がそういうものであるからだと言うことです。
しかし、B29の絵はディティールがめちゃくちゃで、戦闘機の絵も同じく実物とはけっこう違う。
それは、空母から発信していく日本の戦闘機の姿を当時は誰も見たことがなかったから。実戦で生きて帰ってきた人なんていなかったから。B-29も同じことが言えます。だから想像で描かれている、彼らの当時の思い描いていた姿がこれなわけですよ。」と館長は分析します。
そして「その矛盾だけ捉えて、現代人に、やれディティールが違うだなんて言われたくないですね。とんでもないですよ」と、実際そんなことを言われて頭にきたのか熱く激しく主張されるわけです。


その辺りの事情は私にはわかりませんが、なるほど、製造者の哲学や体験がゲーム(機)に現れるという切り口はまさに的を得ているではありませんか。昭和30〜40年代に全盛を極めたメカ式エレメカ(?)を作った人々は、まさしく子供の頃、太平洋戦争とともに生活があった人々です。兵隊さんごっこや、戦闘機の模型に娯楽を求めた世代なわけでしょう。
そこから一歩進めると、SEGA外資系の会社の代名詞的な存在でしたけど、この絵を見る限り、このゲーム機は日本人の職人によって作られていたことも明らかでしょう。そして、演芸・演劇関連を知る方なら、この右と左の配置に、上手(かみて)と下手(しもて)の力関係を重ねて論じることも可能なはずです。
この他、館長は'60s、'70s、'80sそれぞれ作られたエレメカに書かれた”車”の絵の変遷なども説明してくれました。60年代はアメ車、80年代はチョロQになると。なるほど、なるほど。根源に開発者の思想があり、その背景には時代がある。古い筐体からそんな定理がにじみ出ていることに気づかされました。なんでもそうですが、並べられると比較の要素が生まれるじゃないですか。そこで初めて気づくってことってあるんですよ。


こういうことが説明されているクラシックアーケードゲーム施設、それが「史料館」というわけですね。これはおもしろいと思いました。館長的には、駄菓子屋ゲーム愛好家より、自分の研究成果を伝聞してくれるゲーマーの方がうれしいかもしれないんですけど、駄菓子屋ゲーマーさんはもちろん、私的には、こういう文化史を自分の研究に重ねられる方、特にクリエイター系の方などには格好の刺激になる場所だと感じた次第です。


なお、ODYSSEYには「急いだほうがいい」と書きましたが、これにも少なからず意味があります。プライベートな部分なのでこういうオープンな場ではちょっと説明できないのですけれど、”親の体験を伝えなければ”という館長の理由がここにあったりします。


場所は下記参照。どこからでも遠い場所ですので行くのは大変ですが、そもそも本当のお宝なんてものはコンビニなんかには売っていません。「苦労は買ってでもしろ」と、のび太のパパも言っていましたしね。


大きな地図で見る

場所も含め、気軽に遊べるゲーム施設とは言いがたいですが、エレメカやクラシックビデオゲーム実機からの研究で、他の検分をまるで参考にしない(興味がない?)レポートってのは、ほんと独自の生態系というか切り口でしてね。針を振り切ったオンリーワンの魅力的がまぶしいものです。想像もつかない角度からえぐりこんで来ますから。


一般人との共感できるかが大事

とまあ、以上ODYSSEY本編に書けなかったことをまとめてみました。


懐かしいゲームそのものだけにしか興味がない方は、価値を見出せないかもしれません。「戦争の話なんかどーでもいいんだよ、俺はゲームやりたいんだよ!」と。まあプレイヤーはそれでもいいんですけれど、物づくりの側にたつ方、特にゲーム方面に関わる方は、少なくともそれではもったいないんじゃないかと思います。
ビデオゲーム業界があいも変わらずサブ側に甘んじている理由の一端は、背景にある日本文化との関係があいかわらず世間にうまく説明できていないからではないんでしょうかね。
一般人のアーケードビデオゲーム史と言えば、あいかわらず1978年のインベーダーブーム、がんばって「原子爆弾&Tennis for Two」の認識でしょ? プリクラ?惜しい。ビデオゲームじゃない。けど、つまりそういうものですよ。
格ゲー?テトリス? テトリスはかすっているかなあ。けど、うーん、うーん・・・、一般に共感できるよう、ビデオゲームのルーツを説明することができれば、そこから自分の好きなエレメカビデオゲームの細かな魅力も存分に伝えていけるようになると思うんです。
一方で、ただ周辺事情だけなぞっていても、ビデオゲームを本質的で語れないのも事実。ビデオゲームの重要性はなんといっても一人遊び、次いでコンピュータを搭載したことにより、微妙な遊びのバランスをコントロールできるようになった、その本質をスルーして語れない娯楽なわけですから。


何やらくどくどとすいません。えらそうに書きましたが、実はこれって、私個人の課題だったりするんですよね。
広さと深さの両輪からビデオゲームをとらえていく大切さ、
そういうことを改めて考えさせられた一日でもありました。


もとい、次こそは「ミニ・ドライブ」で遊んでやるぜ!!